山崎武平治碵茂の墓
市指定史跡
(ふりがな) やまざきぶへいじせきものはか
【文化財名】 山崎武平治碩茂の墓
【指定番号】 第2号
【種別】 記念物・史跡
【員数】 1基
【指定年月日】 昭和34年1月1日
【所在地】 遍照院(上尾市上町一丁目)
【概要】
山崎碩茂(やまざきせきも)は、当時高名な学僧の雲室上人を上尾に招いて「聚正義塾」の開設に尽力し、雲室が上尾宿を去ってからは、同塾を主宰した人物です。鍬神社北隣で旅籠(はたご)を営む山崎家は、代々「武平治(ぶへいじ)・武右衛門」を称しており、碩茂は四代目です。碩茂は漢学者の石井永貞(えいてい)の門人で、入門の経緯は明らかではありませんが、永貞の従弟に上尾宿の山崎仙右衛門がおり、度々永貞は上尾宿に来遊しているので、仙右衛門の紹介で入門したとも考えられます。
聚正義塾の開設は、天明7(1787)年7月に藤沢(藤沢市)で水害に遭った雲室を永貞が見舞い、江戸へ帰る道すがら上尾の話をしたのが端緒とされます。その後、雲室は江戸の永貞宅で上尾宿の仙右衛門に会い、上尾宿に行くことを約束しています。雲室が上尾に来遊したのは天明8(1788)年の春のことで、このとき碩茂は学塾の開設を請願しました。
碩茂は文政9(1826)年5月20日63歳で没し、遍照院(へんじょういん)にある墓石の正面に「自然院三徳碩茂総覚居士」と戒名が、側面には「名月やひとつに帰る人心 山碩茂」と辞世句が刻まれています。
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上尾市史
第九巻別編2 金石・文化財(平成11年3月31日)