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上尾の寺社 26 諏訪神社(畔吉) 

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月1日更新

春秋の例祭は万作踊りとささら獅子舞でにぎわう

 「ぐるっとくん」を「畔吉」で下車し、50メートルも南へ歩くと変則的な六交差路に差し掛かる。左に鋭角に曲がり、やや東北に50メートルも歩くと、100メートルほど先に目指す諏訪(すわ)神社の鳥居が見えてくる。石造りの鳥居は弘化2(1845)年の建立であるが、その前面に「畔吉村氏子中」と刻された大きな幟立(のぼりたて)があり、こちらは天保9(1838)年の建立である。拝殿に進み参拝することになるが、側面に回ると本殿の見事な斗※(ときょう)と彫刻群を拝観することができる。
 『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代の畔吉村の鎮守は氷川社であり、諏訪社は徳星寺(とくしょうじ)持ちの神社となっている。上尾市域では門前村に諏訪社があり、こちらは門前村、南村、久保村の三村の鎮守となっている。江戸時代の上尾市域ではこの2例だけで、数少ない神社である。ところで畔吉村は江戸時代には石戸(いしと)領に属しているが、川田谷村(現桶川市)の諏訪神社は石戸領の総鎮守で、幕府から社領3石の朱印状が下付されている。同じ石戸領内ということもあり、すでに中世の時代に畔吉村に勧請(かんじょう)されたとも推定される。地元では諏訪社は、元は旧家の井原氏の氏神であったと伝えており、井原氏は戦国期には岩付(いわつき)太田氏配下の土豪を先祖に持っているので、石戸領総鎮守との関連をうかがわせることになる(「社殿修復完成記念碑々文」)。
 明治末年には神社の合祀運動が国の指導で進められるが、当時大石村の大字となっていた畔吉地区は、一村一社にするというこの運動にはくみせず、地区内の神社9社を明治40(1907)年に合祀(ごうし)し、諏訪神社を創設する。鎮守の氷川社から社名を諏訪神社としたのは、それだけ地区民の崇敬が深かったためとみられる。諏訪神社は明治40年に八合(やごう)神社などとともに村社になっているが、一村一社の国の指導にくみしなかったことは、氏子の深い信仰心と気概を示している(『神社明細帳』)。
 畔吉地区では「ささら獅子舞」と「万作(まんさく)踊り」が市指定の無形民俗文化財となっており、境内にその案内板が立てられている。両者とも諏訪神社の例祭に奉納されるものであるが、畔吉の「ささら獅子舞」は3人1組で舞うもので、同じ指定文化財になっている藤波地区の舞とは異なるといわれる。獅子舞は現在は10月の例祭奉納、万作踊りは4月の例祭奉納となっているが、当日は近郷あげてのにぎわいを見せている(『上尾の指定文化財』)。
 ※木(きへん)に共

諏訪神社

諏訪神社写真

祭礼時に揚げられる幟と本殿(写真奥)

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