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上尾の寺社 11 妙厳寺(原市) 

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月1日更新 ページID:0094050

大名・西尾隠岐守累代の墓と信長ゆかりの「鞍」を伝える

 「ぐるっとくん」を原市の「上新町」で下車し、100メートルほど南へ歩くと右手に「妙厳寺幼稚園」の案内板が見えてくる。この案内板に従って右折すると、ほぼ二百メートル先の正面に、目指す妙厳寺(みょうごんじ)の山門の屋根が見える。
 妙厳寺は曹洞宗の寺院で、延徳元(1489)年、大洞存ちょう(だいとうそんちょう)という僧による開基といわれている。初めは、当時の原宿(はらじゅく)の東南に創設されたといわれ、後に現在地に移されたと伝えられる。移転の年代は不明であるが、文禄(1592から96)のころ領主の西尾隠岐守吉次(にしおおきのかみよしつぐ)が再興したともいわれる。同寺の本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)であるが、横須賀(現静岡県掛川市)城主西尾忠成(ただなり)寄進の木造達磨大師(だるまだいし)座像など、多くの仏像が蔵されている(『上尾市史』第9巻)。
 妙厳寺は、近世初めに原市の領主であった西尾氏と縁の深い寺である。天正18(1590)年に徳川家康が関東に入国したとき、西尾吉次は現在の上尾・桶川市の東部地域の5000石の地を与えられている。そして原市と上(かみ)村(上尾市)に陣屋を築いたといわれ、中山道桶川宿も吉次により創設されている。西尾氏は後に大名となりこの地を去っていくが、再興した妙厳寺が代々の墓所となっている(『上尾市史』第3巻・『寛政重修諸家譜』)。
 同寺所蔵の「永楽通宝紋鞍(えいらくつうほうもんくら)」と「鐙(あぶみ)一双」は、埼玉県指定の文化財となっているが、これは西尾吉次が同寺に寄進したものといわれる。この鞍は、吉次が仕えた織田信長から拝領したものと記録され、上尾市域では戦国期の様子を伝える希少なものの一つである。同寺本堂の西方に所在する「西尾隠岐守一族累代の墓」は、市指定の文化財である。本堂に参拝した後、墓所に詣でることになるが、墓前に立つとその威容と歴史の重みに圧倒される。墓石は11代忠篤(ただあつ)までと、3代忠昭(ただあきら)(忠照<ただてる>とも称される)の奥方を含めて12基あるが、近在には見られないだけに実に壮観である(前掲書・『上尾の指定文化財』)。
 西尾氏第6代忠需(ただみつ)が寛成元(1789)年に没したとき、家臣が法要のために江戸屋敷から妙厳寺を訪れている。そのとき記録を残しているが、それには原市の宿並みと共に、広大な境内地のことも記されている(千葉県・個人蔵『原市はなし』)。西尾市の墓域の隣には代々名主を勤めた矢部家の墓があり、幕末から明治初期に私塾を開いた伊藤由哉(ゆうさい)碑と墓(市指定文化財)も所在し、見るべきものの多い寺院ということになろうか。

妙厳寺

西尾家累代の墓の写真

市指定文化財の「西尾隠岐守一族累代の墓」。中央(石囲み)が吉次の墓

永楽通宝紋鞍 付鐙一双へ

西尾隠岐守一族累代の墓へ

伊藤由哉碑と墓へ

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