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(上尾歴史散歩)鉄道の開通と上尾駅の開業

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年4月28日更新

鉄道の開通と上尾駅の開業

 江戸から明治へと時代が変わった当初、明治政府は前時代に整備された宿駅制度を踏襲した。しかし、宿駅の財政が悪化して存続が困難となり、新たな交通や輸送の手段が求められていた。

 そのような状況の中、明治5(1872)年に国内初の鉄道がイギリスから輸入され、新橋~横浜間で開通した。鉄道開通は、暗い世情を明るくするとともに、今後の経済拡大の媒体ともなり得るため、政府は更なる鉄道建設を計画した。しかし、財政状況は徐々に悪化し、私有鉄道の建設を奨励する方針へ変更することとなった。こうした政策を受け、岩倉具視などが中心となり、日本初の私鉄である日本鉄道が設立された。

 日本鉄道は、最初に東京~高崎間の鉄路を計画した。生糸の輸出が国の政策として行われており、上州が主要な産出地域であったことが理由の一つである。その際、英国人技師ボイルは、新橋を起点に王子・赤羽から大宮を経て高崎に至る路線案を示した。この案を採用し、工事は井上鉄道局長官などが担当することとなった。東京から高崎を経て前橋に至る線区を第1区とし、品川~川口を第1部、川口~熊谷間を第2部、熊谷~前橋間を第3部と3区間に分けて着工することとなり、荒川の舟運による資材運搬に好都合であることなどから、第2部から工事が開始された。そして、東京における起点は上野となり、明治16(1883)年7月28日に上野~熊谷間61.2キロメートルが開通し、埼玉県内では浦和・上尾・鴻巣・熊谷の4駅が開業した。

 翌年5月1日には、上野~高崎間が全線開通し、埼玉県内には新たに深谷・本庄の2駅が開設された。さらに明治18(1885)年3月1日、品川まで開通し、横浜から赤羽・品川間を経由して、群馬・埼玉地域の生糸を中心とした物資の輸送ルートが開通した。

 上尾駅は、中山道から通じる道がなかったため、氷川鍬神社境内の一部が献納された。この道は現在も神社の南側にある。また、駅舎は開設当時のものが昭和10(1935)年まで使用された(写真1)。
上野~熊谷間は1日2往復で、2時間半ほどかかった。開通当時の運賃は、上尾~上野間は特別車で1円10銭、上等で68銭、下等で34銭であった。

 高崎線の開通と上尾駅の開業は、駅周辺に工業化をもたらし、徐々に人口が増加することとなった。その後、高崎線は昭和31年に電化し、平成25年には開業130周年を迎えた。現在、上尾駅は1日約4万人が利用する主要な交通拠点となっている(写真2)。
(上尾市生涯学習課)

写真1 昭和前期の上尾停車場(駅)のホーム(絵葉書「上尾みやげ」から)

写真1 昭和前期の上尾停車場(駅)のホーム(絵葉書「上尾みやげ」から)

現在の上尾駅


写真2 現在の上尾駅

 

コラム 東北線の開業

 日本鉄道は、東京~青森間の直結を目指して第1区線から第5区線までを計画した。第1区線は東京~高崎間、第2区線は大宮~白河間、第3区線は白河~仙台間、第4区線は仙台~盛岡間、第5区線は盛岡~青森間である。

 明治17(1884)年に第1区線の上野~高崎が開業すると、第2区線の白河までの建設を図ることとなった。その際、第1区線と第2区線の分岐点の場所について意見が分かれ、英国人技師ボイルは大宮を、米国人技師クロフォードは岩槻を主張した。

 鉄道局長官の井上勝は2つの案について実地調査を行い、明治17年11月にボイルの案が採用された。

 そして大宮町長らの尽力によって、明治18年3月16日に大宮駅が開業し、7月16日には大宮~宇都宮間が開通した。こうして、第2区線は瓦葺村を通過するようになり、現在の上尾市域に南関東と北関東を結ぶ2つの主要な鉄道が通ることとなった。

現在の東北本線(宇都宮線)

写真3 現在の東北本線(宇都宮線)