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(上尾歴史散歩)中世の上尾 鎌倉街道羽根倉道

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月3日更新

中世の上尾 鎌倉街道羽根倉道

 鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府があった鎌倉と日本各地をつないでいた道である。
 上尾市内を通過する鎌倉街道は、荒川(旧入間川)の羽根倉橋から2本の道が通っている。
 一つは大宮台地の西端沿いに平方を経て、県道57号線沿いに桶川・北本・鴻巣・行田を通り、利根川を渡り上野国(現太田市周辺)へ抜ける道で、上野道と呼ばれた。文献が少ない幻の鎌倉街道である。
 もう一つは羽根倉橋から台地上を北上し、さいたま市北区別所から上尾市西宮下に入る道である。この道は羽根倉道とも奥州脇道とも称され、古くは大宮氷川神社と府中武蔵国府を結んだ連絡道である。市内に入った羽根倉道は、江戸後期の「上尾宿明細絵図」に鎌倉街道として松並木と共に描かれている(写真1)。現在の上尾陸橋付近である。『武蔵国郡村誌』にも「宿の南方中山道の傍に往古鎌倉より奥州へ通路あり」とある。
 さらに羽根倉道は国道17号線を渡り、東町会館(勢至堂跡)の前に至る。通り沿いには大きなむくの木がそびえ、木の下には「鎌倉街道」と書かれた道標と庚申塔が立っている(写真2)。付近には勢至堂跡から出土した文明十(1478)年の月待供養塔板碑(写真3)が伝わり、古道の面影をわずかに残している。
 この道をそのまま進むと芝川に到着する。芝川には鎌倉街道に由来する鎌倉橋が架かっている。この橋を渡り三叉路を右方向へ進むと、左側に二ツ宮氷川神社があり、間もなく五叉路となる。交差点には「鎌倉街道」の道標と、「右小室(伊奈町)」と刻まれた江戸時代の庚申塔道標がある。そのまま進み、三つ目の道標が立つ三叉路を左へ行くと、上尾村の「原の前」バス停に至る。ここで市役所通り(上尾・蓮田線)を横断し北東方向に抜け、大宮・菖蒲線まで進むと、右側に平安時代の製作と推定される仏像がある密蔵院に至る。
 羽根倉道はこの先、上尾市内を抜けると伊奈、菖蒲、加須の大越で川口市方面から北上した本道の中つ道と合流して、奥州へ抜けたのである。
 ただし、鎌倉街道というのは江戸時代の呼称で、中世では大道と呼ばれていた。これらの道は戦国時代において後北条氏が領国に整備した伝馬制により、中心的な道としての機能を終えた。
(上尾市文化財保護審議会委員加藤功)

上尾宿明細絵図 鎌倉街道松並木と読める(アップ)
写真1 上尾宿明細絵図                    「鎌倉街道松並木」と読める

鎌倉街道道標(東町会館前)

写真2 鎌倉街道道標(東町会館前)

地図

コラム 羽根倉道は何を運んだのか

 奥州への通路となった羽根倉道は、文治5(1189)年7月、足立氏が奥州藤原氏征伐のため兵糧米を運んだ道である。
 道は人や物の交流に重要な役割を担ってきた。古くは奈良・平安時代に穀物や特産品を運搬した。平城京出土の木簡(荷札)には、天平7(735)年11月、足立郡から調(特産品)として蓮の実が奈良の都へ納められたことが記されている。蓮の実は菓子や薬として食された。『和名類聚抄』(930年頃)によると、足立郡には稲直郷(上尾・桶川・伊奈地域)が置かれた。稲直郷の国有地で生産された稲束は、羽根倉道で郡衙(郡役所)から国衙(東京府中市)へと運ばれ、鎌倉初期まで租(税)とされた。
 上尾市内では、羽根倉道沿いの勢至堂跡から板碑が発見された(写真3)。板碑の材料である緑泥片岩は秩父地方で産出される片岩であり、板碑は市内に750基も確認されている。秩父地方から河川と古道を利用し、板碑が運び込まれたのである。
 羽根倉道は緊急時は兵道だが、通常時では納税や交易の道、文化伝播の道として、武士や庶民が往来していた。

板碑写真3 板碑(月待供養塔・個人蔵)