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上尾歴史散歩318 農家の生業

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年8月30日更新

農家の生業

 大宮台地の中ほどに位置する上尾市域の農地は、『埼玉県北足立郡事一班』によると、明治40(1907)年には、田が21パーセント(543・4反・約53万平方メートル)、畑が79パーセント(2071反・205万4千平方メートル)で、畑が8割、田が2割と圧倒的に畑の割合が高かったことが分かる。
畑は台地上に広がり、市域の農業経営の主体を成していた。一方で、田は台地からの湧き水を水源とする小河川に侵食された低湿地で営まれていた。上尾市域のように畑が多い地域を「野方」、他方で荒川対岸の川越や川島のように低地で水田が多い地域を「里」と称する。
大宮台地は、荒川と元荒川に挟まれて島状に高くなっているため、低地の河川に農業用水の水源を求めることが難しいという地形的な特性がある。
畑の土質は、富士山や浅間山の噴火で拡散した火山灰に由来し、そこに含まれる鉱物が酸化して赤みを帯びていることから「赤土」とも呼ばれている。酸性土壌で粘り気が強く、肥料分に欠く土壌のため、植物の生育には不向きな土質である。そこで、肥料分の多い荒川河川敷の土を畑に運び込む「ドロツケ」と呼ばれる土壌改良が行われた。
当時の農産物は、春から秋にかけて栽培される夏作物としてサツマイモや陸稲、秋まきで春に収穫する冬作物として大麦や小麦が作られた(写真1)。
一方、田では春から秋にかけて稲作が行われ(写真2)、市域では田植えを行わず直播きによる摘田と呼ばれる栽培法がとられた。昭和40年代までの田や畑の農作業で一般に使われていた農機具が、国登録の有形民俗文化財「上尾の摘田・畑作用具」である(写真3)。しかし、時代と共に農作業を効率的に行う農業機械が導入され、農家の労働形態も変化した。労働力の省力化が実現したことで後継者は転職し、休日に農業機械を集中的に稼働させる労働に変わり、兼業農家が増加していった。
都市化が進む中で、露地野菜や果樹栽培、施設園芸などを複合させた農業も営まれ、多様な農産物を庭先などで直接販売し、地産地消が定着してきた。近年は、後継者不足や農地の減少など課題も多いが、野方の農業は、都市近郊農業として今に受け継がれている。
自然相手の農業は、立地や気象など環境によって条件が異なり、その違いが地域文化の特徴を表している。農家の生業は生活の中で繰り返された、長年の経験によって育まれた文化である。
(上尾市生涯学習課)

 

弁財前耕地の麦まき 稲刈りとソリ(ダブネ)

写真1 弁財前耕地の麦まき                写真2 稲刈りとソリ(タブネ)

国登録有形民俗文化財の摘田用具

写真3 国登録有形民俗文化財の摘田用具

コラム 国登録有形民俗文化財「上尾の摘田・畑作用具」

 稲作では、田植えを行う「植田」が一般的には良く知られている。一方、種もみを直接、田に直播きする「摘田」と呼ばれる栽培も各地で行われており、在来の伝統的な農法と考えられる。しかし、水田開発や圃場整備、農業の機械化などにより、現代では摘田は行われなくなっている。
他の地域に比べ上尾市域では、昭和40年代まで長く摘田が行われていたことから、摘田用具の収集を開始した昭和55(1980)年当時には、まだ用具の残存度が高く、系統的に用具を収集することができた。摘田用具は、田作りに始まり、播種、除草、施肥、収穫、選別に至る一連の作業に関わる用具で構成され、それとともに農業の基盤であった麦作に使われた用具も収集されている。
これらは、大宮台地という畑作中心の地域での農業経営を示すコレクションであり、特に畑作地帯における稲作の地域的な特徴を示す資料として、わが国の農耕文化の変遷を考える上で注目され、平成28(2016)年3月2日に、国の登録有形民俗文化財に登録された(写真3)。