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上尾歴史散歩314 川の大じめ~村を守るフセギ~

印刷用ページを表示する 掲載日:2017年5月1日更新

川の大じめ~村を守るフセギ〜

 地図

 市民体育館前の交差点を、上尾駅に向かって進むとすぐ左手に、鳥居のような大きな注連縄がある。これは川地区に伝わる民俗行事「川の大じめ」によって架けられた注連縄(大じめ)である。
 起源は定かではないが、明治初年に描かれた旧川村の絵図に、この大じめが描かれている(写真1)。旧川村は、田や畑に囲まれ、村の本道を通ると、出入り口が一つしかない袋小路のような集落であった。村の中へ悪霊や疫病などの厄災が侵入するのを防ぐために、村の出入り口にあたる部分の道の両端に柱を建て、そこに注連縄を渡らせたものが大じめである(写真2)。また、それ以外の徒歩でだけ通れる細い畦道などの先には「輪注連」という小さな輪状の注連縄を、6カ所に架けている(写真3)。
大じめの中央には、「馬の草鞋」と呼ばれる大きな草鞋が取り付けられている。諸説あるが、この草鞋を見た悪霊や疫病が、この村にはこんな大きな草鞋を履くものがいるのだと恐れ、村の中に入って来ないようにするなどの意味が込められているという。これはフセギや春祈祷・夏祈祷などといわれる行事の一つで、春から夏にかけての時期に、村の境界にお札や注連縄などを掲げて、厄災が入ってこないように祈願するものである。このようなわらで作った祭具を村境に祀る行事は、蓮田市伊豆島の春祈祷の大蛇、さいたま市岩槻区尾ヶ崎の夏祈祷の注連縄や、長瀞町上長瀞の「オショウジン」の大わらじなど、県内にも類例が多い。
毎年5月15日に、川地区に昔から住む家が中心となって構成された「川の大じめ保存会」の会員が、鎮守である神明神社の境内で大じめをなう。大じめを作るために使うわらは、かつては各家で持ち寄り集めていたが、現在では稲作を行う家が少なくなったため、地区の外から買ったり、譲り受けたりして保存会が一括で調達している。大じめを作り終わると、4、5人で担ぎ、列になって、大じめを架けるかつての村の入り口に向かう。到着すると、前年度に架けられた大じめを外し、新しい大じめを架ける。大じめの架け替えが終わると、手締めをし、その後、神明神社で慰労会となり、行事は終了となる。
(生涯学習課)

明治初年に描かれた旧川村の絵図

写真1  明治初年に描かれた旧川村の絵図
道をまたいで大じめと、傍らに庚申塔が描かれている。

昭和40年代の川の大じめ

写真2  昭和40年代の川の大じめ
旧道を遮る市民体育館通りがまだない。

輪注連

写真3  輪注連

コラム 川にあった十福寺と移動した神明神社



川の神明神社境内の南側、現在、川地区の自治会館兼社務所である神明会館の裏には、川地区の共同墓地がある。かつてこの地にあった十福寺の墓地であった。
十福寺は、神明山地蔵院と号する、旧川村の寺院であった。江戸時代後期に編さんされた『新編武蔵風土記稿』によると、元々は十連寺の隠居寺であり、開山は延宝3(1675)年に亡くなった玄秀であるという。いつの頃からか村の寺となったが、大正8(1919)年の火災などを理由に、昭和の初めに本尊の阿弥陀如来とともに十連寺に移された。
一方、鎮守である神明神社は、かつては十福寺持ちの神社で、旧川村の南西、現在の市民体育館付近にあった。畑の中にあり、地盤が低く、雨が降り続くと水没してしまう状態であったといわれ、昭和47(1972)年に旧十福寺の隣である現在地に移動して今に至っている(写真4)。

神明神社
写真4  神明神社