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(上尾歴史散歩)遺跡が語る上尾の歴史6 現存する上尾の古墳(殿山古墳 畔吉)

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年9月3日更新

現存する上尾の古墳(殿山古墳 畔吉)

 上尾にも古墳がある。市内で唯一墳丘が現存する、殿山古墳である。上尾市域の西の端、徳星寺の南西約250メートル、荒川低地に張り出す舌状台地上に位置している。古墳の西側は急な斜面となり、その下部には荒川が流れている。
 殿山古墳は、東西の両側が削られ、中央部のみを残し「かまぼこ」のような形となっている。昭和52(1977)年、霊園の造成工事に伴い、周囲を発掘調査した際に見つかった周溝(古墳の周囲に掘られた溝)から、直径約40メートルの円墳であることが分かった。高さは3メートルほどである。発掘調査で周溝から見つかった出土遺物は、壺形土器1点、坩(小形の壺)形土器2点、鉄製の鎌1点であり、これら遺物の年代から古墳は5世紀前半(約1600年前)に造られたと考えられている。土器はいずれも底部を打ち欠かれた底部穿孔土器である。この土器は、底部に穴を開けることで、日常で使う土器と区別し、葬送儀礼のために古墳に供えられたと考えられている。古墳と発掘調査で見つかった遺物4点は、市の文化財として指定され、その一部は大石公民館で展示されている(写真1)。
 古墳時代とはその名の通り、古墳が築造されていた時代のことである。地域の有力者とその後継者は自らの墳墓を、弥生時代に登場した方形周溝墓から、古墳へと移行していった。これは、古墳を造営する文化を持つ中央政権との、政治的・社会的な結び付きを意味していると言われている。
 殿山古墳の北側には、4基の方形周溝墓が見つかっている(写真2)。いずれも古墳時代前期の遺構で、重なり合うことなく、第1号、第3号、第2号・第4号方形周溝墓、殿山古墳の順序で造営されたと考えられる。このような遺構の検出状況や、現存する古墳の配列は、方形周溝墓から古墳へと連続して築かれた貴重な例である。
 現在、周辺に牧場や霊園があり、多くの人が利用している。時代は変われど、この場所には特別な空間として、人々を集める力があるようだ。(上尾市生涯学習課)

壺形土器 坩形土器 鉄製鎌
写真1 出土遺物(左から壺形土器、坩形土器、鉄製鎌)

発掘調査時の殿山古墳(昭和52年)    地図
写真2 発掘調査時の殿山古墳(昭和52年)   

コラム
古墳出土銅鏡

 市の文化財に指定されている2枚の銅鏡がある。4世紀後半に作られたと考えられ、畔吉地域にあった「イガヤマ」と呼ばれる場所から出土したと伝わっている。この場所は、昭和10年の報告文で江川山古墳と記されるようになったが、所在地は判明していない。直径10メートル前後の円墳であったとされ、2枚の銅鏡の他に、直刀や管玉、土師器片が出土したという。
 2枚の古墳出土銅鏡は、青銅製の?製鏡である。?製鏡とは、弥生時代から古墳時代にかけて中国から伝来した舶載鏡を模して、日本で製作した鏡のことである。鏡の背面の文様から、捩文鏡(写真1)と獣形鏡(写真2)と呼ばれる。捩文鏡は、直径11.1センチメートルで、重さは93.8グラム。獣形鏡は、直径9.4センチメートルで、重さは107グラムである。
 古墳から鏡が出土することは、その古墳の被葬者と当時の中央政権とのつながりを示しているといわれる。被葬者にとっては権威の象徴であり、中央政権からは地方への牽制力の現れであったと考えられている。 この2枚の鏡は、遠く離れた地域との交流の痕跡である。

捩文鏡 獣形鏡
写真1 捩文鏡                       写真2 獣形鏡